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2005年06月17日

●コンサルタントの憂鬱

「地域づくり」のコンサルの仕事に就いてはや8年目。主に行政を通して住民の方と一緒に「地域づくり」という行為に携わるこの仕事、ここ数年で急速に嫌気がさしてきてしまった。
 結局、この仕事は行政やコンサルの「思い通り」にある程度コトを進めてしまうことができるのが実情だったりする。むろん、行政やコンサルが「こんな地域であるべきだ」と考えていることが、イコール住民の望む地域の姿であることもあるが、実際にはここで考えられる「あるべきだ」という像は、ごくごく普遍的なものであったり、至極当然に生まれてくるアイデアでしかなかったりする。


 また、これからの地域がどうあるべきかという長い目での論説ではなくて、意外と短視眼的なのも特徴で。意地悪くいえば、たとえば歌舞伎や神楽などの「芸能」であれば、その演目の意味や背景を考えたり知ることではなく、ただただいかに舞うか、いかに弾くかといった小手先の技術だけになってしまっているというか。
 なんか違うと思うんだよねぇ、こういうの。初期砂浜美術館や赤岡の歌舞伎などのように、「思想」が先に生まれて「技」がそこから派生してきた地域づくりには、こういう禍々しさは当然ないし、きわめて長い目線でモノゴトが考えられているような気がする。だけど、行政又はコンサルが思いっきり絡んでいる「地域づくり」の現場には、まずワークショップはどうあるべきかといったこと、まずいかに参加者を広げるかといったこととかに囚われてしまうし、長くて3年のうちに成果を出すことが、ほぼ間違いなく求められる(役人には異動がありますから)。また、コンサル側はコンサル側で、企業として利益を追求しなければいけないので、たとえば計画の策定手法やワークショップの技法というのは定形化もしくはキット化を進めていかなければいけないし、いつまでもひとつの「現場」にこだわって仕事をし続けていると仕舞には怒られてしまいかねない。自分がそーだったように。
 なんかそういうのがイヤになってしまったのだ。どちらかというと、おいらの場合行政と仕事をするということに。てゆか、行政>コンサル>住民という図式に嫌気がさしたというか。最近ではこれに行政色の強いNPOが入ってきてますますタチが悪いことになっていますけどね。。。

 あと疑問なのが、こうした「地域づくりの現場」に参加する住民は、当然ながらごくごく一部なのだということ。大多数の住民は地域づくりという事に、悪い意味ではなく興味がない。一方、参加する人々は「一人でも多くの参加者」をつくろうと必死であったり、もしくはこうした場が設けられることは「チラシ」や「小さな新聞記事」でアナウンスされてるから、こない方が悪い・・・といったようなスタンスで『参加している者こそ正義』的な感じでコトを進めざるを得ない。
 大抵の場合このアナウンスの手法にも問題があるんだろうけど、より根元的なところで自分たちの暮らす地域に「関心」を持って貰うことのできるような仕掛けをしておかなければ、ただ単に「こんな集まりがあるから参加しませんか」とか呼びかけたりしても反応できるはずがない。ましてやそれが単なるイベント的なものであればなおさらだ。
 あと「若い人がこない」という嘆きをよく聞くんだけど、こういう場にこないでも「若い人」は結構自由きままにやってるんだよね、分かりやすいところでいえばお店やったりとかライブ仕掛けたりとか、こういう現場にくる人たちの知らないところで。そしてこういった店とかでやってるイベントの方がよっぽどたくさんの業種の人、世代の人がきていたりして(笑)
 「地域づくり」って、たぶんこんな色々の人の思いが重なりあって自然発生的に育っていくもんだ・・・というか育っていかないといけない・・・と思うんですよね。一部の住民さんや、一部のコンサルさん(コンサルさんも住民だ)、そして行政さんの思惑とは全く違うところで。
 なんかうまくまとまりませんが。逆にいえば、最大公約数を建前上とらざるを得ないコンサル行政・一部のNPO型のまちづくりにも限界があるということですかね。なんか最近思うのは、いたずらにネットワーク広げて最大公約数のまちづくりをやるよりは、ホントに意識を同じくする少ない人数でまちに「関心」を持ってもらえるような仕掛けをした方が、はるかに「まちのため」になるんでないかということだったりする。その方がよっぽど濃いし、よっぽど力がある。高知遺産とかはそんな感じだったから受けているような気がする。

いつかつづく


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コメント

こんばんは。今回の記事について意見を書いていたんですが、とてつもない量になってしまったし、今の時間では伝えきれないので、改めてコメントさせていただきます!!!レッツまちづくり。

どしどし書いてくださいな。ぜひに。
たぶんコメント制限とかないですし。。。

行政コンサル、私も同様よく理解できます。いずれにせよ地域活性化は、避けては通れませんしかし、叫べどどかないのが実情で、馬路村がそうであったようにキーマンの設定とその熱意以外にないのかもしれません。
だとすれば、成功例があるように地元の有志による小集団を取り上げ組織化し、全体の意識革命に持ってゆくことがよいのかと思いますさらに、活性化する集団のリーダの意識改革がもっとも必要で、適格者でなければ、どうしようもないです。いかに、意識改革のテクニックを持っているかでしょう。同様、行政のセンスの意識を改革するのもコンサルタントの使命と考えています。企業でのベンチャ育成、産学官の新連携プロゼクトの推進カタリスト的存在の延長での活性化も視野にいれることもありうるとおもっています。どう考えましょうか?

maeさんの言うコンサル像というのは、自分にはやや違和感があります。
意識改革を提起しなければいけない側であるというのは間違いないと思いますが、その改革で得られる「最終形」を強要してはいかんのかなと。それでは地域づくりというより地域開発に近いというか。。。

現状として「意識改革」というのはあまり成功はしていませんよね。
当面の三年は意識改革されていても、その後には続かない。
そこでまたコンサルとしてフォローをすればいいわけですが、
そんなんだったらコンサルとして動くのよりも、
コンサルからみた時の「一市民」として活動をすることの方がよっぽどいいとも思えます。まあコンサルか一市民かというのは微妙な壁でしかないけど、その方がよほど健康的にも思えたりします。

仰るとおり、県レベルのコンサル依頼は一時的なアドバイスに近いものですね。その短い期間の成果を研究レポートにしなければならない。
これに懲りて、経済産業省も新たに産学官新連携促進事業投入で、新事業の目標を設定し市場確保、売り上げ確保の審査を経て導入となります。:(私も参画)目標設定がなければ、コンサルの評価もないです。
コンサルタントも経歴、経験、実績など多様でそのアプローチも千差万別です。

 大はシンクタンク、日本のアーサーアンダーセン、電通、日本能率協会、府県市の支援センター
などに所属、関わってきました。
、他県にまたがる行政プロゼクト、、企業、パパママ企業までのシステムを扱ってきましたが、MBA的経営管理技術の習得と現場に対する提案技術の徹底したし習得研鑽がものをいいますし、それが大きく成果に反映され評価につながります。
政府のパイロトット事業参加などが面白いかも知れません。
所詮自分自身のコンサルができませんと私も含め自信と存在価値を失いかねないと考えます。
 「コンサル像」の定義は個人各々でしょう。
ではまた
 

の烙印。
らくだいい

「コンサル像」を定義づけなくても、千差万別でしょう。目標管理がまず地域になければ、改善はない、「小集団活動改善管理技術」は多く取り入れられて成功してます。要は、プロゼクトマネージメントです。
意識革命は、社長の意識が変わらねば、改革は取り入れられない、権力者の意識を変えることが
コンサルの始めと考えてます。ボトムダウン経営でないと改革改善はできないと思っています。
自然発生的に生活習慣が定着しているグループの改善には、仰せのボトムアップでは解決策名無理かも。
私の参画している通産指導の産学官の新連携促進事業などは、3年から4年のスパンの指導です。
3つの県をまたがる行政支援、府県レベルの支援、企業IT化促進事業の支援、産学融合化支援、など、シンクタンク、アーサーアンダーセン、日本能率協会に関係してきましたが、私の場合、徹底した問題解決管理技術をマスターし、かつMBAの実績がなければ相手の問題解決ができません
でした。相手の意識をいかに切り替える技術を習得し実践できるかが、コンサルの価値であり評価だと思っています。
自分のコンサルをどうコンサルしているかどの改善点は何かででしょう。

初めて読み、かつ書き込みます。まちづくりでここ数年思っていることは、「一人からはじめるまちづくり」ですね。行政、コンサル,NPO、いろんな組織があり、いろんなテクニックがあるんだろうけれど、まちづくりの根っこというのは、自分が今住んでいる家、庭、目の前の道
お隣さんとの境、そこから始めるのが一番腰が据わっていると思うようになりました。例えば、隣のお家の花壇があって、そこに咲いている草花が育つうちに、じわーっと側溝蓋の上ににじみ出てくる。公共の境と民間の境が滲んできて、もやーっとした空間になっちゃう。そんな形でまちがつくられていくのが本来じゃないか・・・。
 高知だけでなく日本に住んでる人たちは、町は役所が作るものっていう意識が染み付いちゃってると思いますね。一人から始まるまちづくり→向こう三軒両隣のまちづくりというふうに広がっていくというか、こう考えてくると、今までのパターン化された役所やコンサルっていらないというより、おジャマムシの場合が結構多いんですねえ。
 例えばコンサルや行政マンが一人からまちづくりを考えたり実行したりしてますかねえ・・・・。

maho記者さん>レス遅くなりました。
実際そうなんですよ。一人からはじめるのが一番。だけど、最近はそれすらもなんか変になってきて、いわゆるプロ市民的な人々が「まちづくり〜!」とか叫んでいます。それを見ると、なんだか私はちょっとウスラ寒い。
一人から始めるという言葉はいい。だけど、それが目的化するとまた訳がわからないことになる。
それが妙な形で組織化して、さらに行政やコンサルを異様に敵視するようになってくる=右傾化してくると、これまたフツー市民にゃ縁遠くなる。

結局は、一人一人の人々が、「自分たちがしたいことをする」、それだけでいいのではないかと。行政やコンサルは、それを遠巻きにみて、ちょっとだけ支援するとか、そういうので十分なんじゃないかと思います。おいらは行政もコンサルも、本来は絶対要ると思うのですが、そういう「際(きわ)」を探っていかなければ。
まあまたこれはこれでおかしくなる場合もあるんですがね(高知県の地域応援団は、ホドホドにうまく行っているところと、団員が頑張りすぎて「団員が抜けたら一巻の終わり」のところが出て来てる)。

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