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2005年08月07日

●観光客エゴと地域エゴ【学ぶべきことの多い絵金蔵】

 どこでみつけたのかは忘れてしまったが、いまなお住民が暮らす白川郷に関する議論掲示板みたいなところで、「住民が出ていった方が美しい景観が守られる。。なんでまだ住んでんの?汚らしいよ」なんていう意見があって、またそれに同調する意見が多くてびっくりしたことがある。
 白川郷では観光客がいきなり家にずかずか入ってきて写真を撮っていったりとする事件が多いというけど、ああこういう気持ちでいる人って結構多いから、ずかずか入っていけるんだなあと妙に納得したものだった。以前白川郷に行った時も、平気で田圃に観光客が入って記念写真を撮ったりしている姿をみて、あまりのふてぶてしさに驚いたりしたことがある。

「観光客エゴ」と「地域エゴ」
 「客」なんだから「お金払ってるんだから」「きてやってるんだから」という観光客エゴ(観客エゴ・客エゴ)は、あまり行きすぎるとどこかで何かをおかしくする。むろん、「客」という存在は、多くの場合たとえば入場料とか移動時間といったものを割いてその場にやってきているのであって、支払った額や時間に対するサービスを求める権利(もしくは求めたい気持ちといった方がよいかも)がある。だけど、その権利は主張しすぎれば「エゴ」になる。いくらきれいな風景を見たいからといって人の家に入る権利はないし、地域の文化風俗・いま、そして未来へと続く歴史を破壊する権利はない。
 だけど、観光にも関わる今の仕事をしていて思うのは、世の中そんな人ばかりだなあということであったりもする、悲しいことに。また、観光客を受け入れる側にも、こうしたエゴを大切にしようとする意見が以外と多い。まあ、実際にはこの線引きってとっても難しいんだけど。

 また、こうした観光客の権利を逆に圧迫しようとすると、「(観光地側の)地域エゴ」として片づけられる。あまりにその地域のありようやそれまでの仕儀、文化にこだわるあまり、観光がサービスであるということを忘れている、といったような指摘だ。せっかくきてくれるんだから、観光客の立場にこそ立った施設づくりや観光まちづくりを進めるべきだ、というわけである。そのためには、ある程度の文化や生活、伝統の犠牲も致し方がないと。
 だけど、この場合観光で食おうとして最も大切にするべきものを捨てたがために、その最も大切なものを見たくてやってきた観光客をがっかりさせることにも往々にして繋がっている。わかりやすいところでいえば四万十川なんかがいい例だろう(ちなみに四万十川は、JTBの調査で観光客の期待値が高い一方、リピーター率の低い観光地としての評価がなされていた。同様の観光地としては札幌、白川郷、宮古島、長崎などがある)。
 こうした観光客と地域側の受け止め方のずれ。それ自体が生まれることは全くもって仕方がないが、おいらはこれからの時代においては、個人的には後者寄り、すなわち観光客の変なエゴに付き合うことなく、地域の文化や伝統、環境といったものをきちんと守る非常に好意的な意味での「地域エゴ」を押し通す方がいいのではないかと思っている。それでは確かに観光客の短期的な満足度は低いものになるかも知れないし、リピーター率は低くなるのかも知れない。だけど、それで一番大切なものを失うよりはましだ。そうそう、京都の三条通みたいにならないように。。。

絵金蔵はフラストレーションがたまるのか
  さて、このいい例が、このブログでも時折登場する赤岡町・絵金蔵と絵金祭りにあるような気がする。この絵金蔵は、それまで町内の個人がめいめいに所蔵していた絵金の「おどろおどろ」な屏風絵23点を収蔵保管している。そして、本物は「蔵の穴」というレンズを通して見せ、絵金祭りの夜を模した暗がりの展示室にレプリカが並んでいる(提灯を持ってこのレプリカを見ることができる)。
 開館以来、県外からやってきた人は必ずといっていいほどに連れていく施設なのだが、ほとんどの人たち(絵金は元々は知らない人たち)が絵金の面白さに触れ、「本番の絵金祭りも見たくなった! また今度来ます!」と言って帰っていく。ただ、本物を見れないことにフラストレーションをためる人もいる。ここまで来たんだから、どうせなら本物をみせてほしいと。また、7月中旬に高知にこれない人のことを考えるべきだ、どういうつもりだ何様のつもりだという人もごく希にいる。・・・・むむむ、どうやらそこがこの施設の最大の弱点であり最大の強みのようだ。
たとえばこんなご意見こんなご意見

 確かに、本物を守るために本物を見せずにレプリカを見せる行為は、観光客側にフラストレーションを溜める可能性はある。しかし、年間を通して本物を見せるという行為は、年にたったの数日とはいえ野ざらしの展示を長年にわたり続けてきたことや、「個人蔵」という環境で保管されてきたことで相当の劣化が進んでいるという屏風絵本体のストレスを高めることに他ならない。その結果、本番のお祭りで見せれない状態にしてしまったのでは意味がない。蔵に納められた絵金の屏風絵は、今に続く「本来の目的」・・・美術館や博物館の檻の中で見ることに意味があるのではなく、ハレの日に路上や境内に飾られることにこそ意味があるのだ。
 その屏風絵をたとえば常設展示にすることは、それだけでも当然劣化をより進行させることにつながるだろう。修復すればよいじゃないかという意見もありそうだけど、個人蔵の作品群ではそれもそう簡単ではないし、修復はできることなら避けることが望ましい。そういう本物志向の強い人に限って、修復されていると「なんだ修復されてんのか」とか言い出したりするし。
 また、赤岡の屏風絵は、いずれも暗闇の中で百匁蝋燭のもとで見ることが大前提の構図(蝋燭の光があたるあたりを中心とした構図)であり、彩色技法(ある屏風絵は百匁蝋燭の光でゆらゆらと照らされると、絵のほぼ中央に描かれている血の部分に混ぜられた何かが光り、まるでどろどろと流れる血のように見えはじめるのだという)が使われているという。少なくとも、煌々とした光のもとで赤岡の屏風絵を見ることは間違いといえるし、その迫力はどう工夫したところで本番の4日間を凌ぐことができるようなものではない。
 おいらからすれば「7月中旬に高知にこれないひとのことを考える」のはナンセンスで、「毎年7月中旬ならきっと永遠にこの祭りはやっているから、どうか見に来ることを考えてください」といかに伝えるか、そのことの方が大切だ。その点では、絵金蔵はかなりいい線をいっていると思う。

「本物」の価値を理解している(と思われる)絵金蔵
 いずれにしても、絵金蔵は、おそらく「本物みせぇ」という批判が出ることも承知で、この大前提をとても大切にしているんじゃないかと思う。本物はそれまでの「個人の家の中」から「蔵の中」に移ったけど、本物を見たければ絵金祭りに合わせて見にきていただく他ない。江戸時代末期なのか明治初期なのかは分からないけど、少なくとも100年以上に渡って続いてきた生きる文化を守ろうという赤岡の姿勢がそこには垣間見える。いわば、赤岡や屏風絵のコンセプトを忠実に守っていこうとしているわけだ。
 そして、そのことはどうも「暗くて危険」としょっちゅう言われるらしいが、「蝋燭で屏風絵を見るという行為」を疑似体験してもらう展示室の在り方にまで徹底されている。とにかく、できるだけ「本物」・・・つまり暗闇の中で蝋燭の光で絵を見るということ・・・へのこだわりが半端ではないのだ(そう考えると、色味の再現性が低くなるのは宿命とはいえ、レプリカの出来が決してよいと言えないのは残念)。ちなみに、この展示室が「暗くて危険」なら、絵金祭りの前に行われる宵宮の時の展示は、もっと「暗くて危険」だ。

本物は本物の場所で。レプリカは、本物らしく
 このことを書いていてふと思い出すのが、阿波踊りがステージで一年中見れる徳島・眉山の麓にある「阿波踊り会館」。これって「観光」という立場だけで見たらいいのかも知れないけど、夏祭りとしての「文化」という立場から見たらどうなのかなとも思う。やっぱり夏の町中で汗かきながら見るからこそ阿波踊りはいいのであって、クーラーのよく利いたステージで踊っているのを見たところで、果たして一体「阿波踊り」を見たと自慢していいものなのか。少なくともおいらはそんなの見たくない。
 本物の場所がまだ生きているのなら、やっぱり本物を本物の場所でみたい。本物を補完するイベントや施設をつくるなら、できる限り本物を意識したものであった方がいい。そのギリギリをせめて模索してほしい。そして、何よりかにより本物を見たいと思わせるものであるべきだ。ステージでやってる阿波踊りをみても、阿波踊りの本当の魅力はおそらく伝わらない。狭い道に列をなしてぎゅうぎゅうに詰まりながら踊りまくるからこそ面白いのであって、横に長いステージで踊っても、なんだかただの盆踊りになってしまう。・・・まあこれもある意味「観光客エゴ」なんだろうけど。

 赤岡の屏風絵については、年に数日でも本物に触れんばかりの距離で見ることができるという、まさに屏風絵に「旬」の瞬間がいまなおあるという事実にこそ目を向けるべきなのだ。本物が見たければ、本物が出る日にきたらいい。「本物がみたいのに、レプリカかよ」という人には、自信をもって「7月に来てください」というしかないのだ。絵金蔵は、それができない人のために、せめて疑似体験してもらうことに徹するほかない。展示室も、おいらはもっと暗くていいと思うぐらいだ(せめて足許を照らす床置照明はいりそうだけど)。蔵の展示はなんか暗くて危険な感じだったけど、本番の4日間は一体どんなに危険な感じなんだ??と思わせるぐらいの。
 また、こうした観光客エゴに振り回されることなく、こうした赤岡の姿勢や「過去から現在、未来へと続く」文化としての価値、絵金屏風絵の美術史的価値・・・という側面をより強調した研究・情報発信・教育普及に向けた活動を進めていくことも大切なように思える。

おまけ
 美術館の常設展示でも、「目当ての作品」は数年に一回しか展示されない。以前おいらが京都にいたとき、高知県立美術館収蔵作品の一番人気・舟越桂の彫刻を見たくて帰ってきたら出ていなくて、受付の人に聞いたら「次は来年の展示になります」と言われてがっくしきて、しかもその時県外からお客さんを連れてきていたので「収蔵庫あけてみせぇ」なんていう傲慢な注文をしてしまった(今考えると最悪です。てんぱってました。ごめんなさいあの時の窓口さん)。このとき学んだのは、目当てのものを見たければ、なんぼ遠くに暮らしていても、たとえ重要なお客さんを連れていっているとしても、めあてのものを見せてくれる時に行かないとだめなのだ・・・なんていう当たり前のこと。美術館の場合は、ダメなら図録でみるしかない。
 赤岡と絵金蔵の場合、たったの4日間しか本物は展示されない。でも、残りの361日間、「観光客」のためにもここが絵金の町であることを伝える必要、もしくは伝えたいという思いがあった。また、高齢化が進む町の中で、個人蔵の屏風絵を永続的に保管する体制を整える必要もあり、研究・情報発信を図る体制を整える必要もあったのだろう。
 その様々な天秤をかけてできたのが絵金蔵。こう考えると板挟みになるのは宿命なのかも知れないが、「一番大切にしたいこと」をしっかりぶれることなく守ろうとする姿勢は、むしろ学ぶことがたくさんあるような気がする。

・ ・・でも、「蔵の穴」だけは正直ストレスがたまる・・・レンズが邪魔くさく感じるのは自分だけだろうか

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コメント

三条通ってショッピングの中心が三条通とか烏丸に移ってきてるので
若者達のショッピングストリートって感じになってるようなきがすんだけど。。
いや、マジで河原町通りの現状を見る住民としては
三条通ぐらいじゃないと安心してショッピングできないですw
マジで河原町通り離れは深刻だと思いますよ。
 屏風絵って難しいですよね・・これが現状としては最上のさくだと思いますが
展示の仕方も凝っているようだし。一度見てみたいものです。
 サビーって関西の雑誌でお遍路特集でした。一冊丸ごと四国で、見てたら
お遍路行きたくなりました!近いうちにお邪魔したいです。

買い物としては、まさに三条通だと思う。
この部分、あとで後書きした部分なので少し意味が通っていないんですが、要はなんかこないだ三条通行ったとき、あまりのリノベーションの多さに少し辟易したのね。んで、地元の商店の人と話すと、こんなん京都ちゃうと。なんともわかりにくいんだけど(すいません)、三条通の場合は、地域エゴじゃなくて観光客へ合わせたエゴみたいのでつくられている感じがしてなんだかなあと思った訳です。そのことを言いたいんだけど、今読むといまいちわからん(汗
 絵金蔵、いろいろな悩みはどうみてもありそうな施設だけど、単純に面白いですね。昨日改めて見に行ったんだけど、ここではレプリカだからどうというのはあまり意味がなくて、「闇夜に展示される屏風絵」という祭りのコンセプトを年中お見せするということに意味があるんですよ、やっぱり。屏風絵を年中展示してしまうという行為=美術館という檻の中に納めるということ=は、やっぱりどうにもそぐわない。むろん、それが嫌な人は多いだろうけど、「本物」の価値ってものを考えるいいケーススタディになるような気がしますね。
まあ savvy読んで、はよきなはれ。

これからは「地域エゴ」を押し通すことがいい・・・私はまったくコレに賛成。客に合わせても、結局は周りとおんなじものになってしまっちゃーそりゃ飽きる。「観光客エゴ」に合わせ過ぎて、つまんない場所になったとこ、本当に多い。
絵金蔵は「美術品」としての屏風、というより、「絵金を取り巻く文化」全体を大切に思っているんだけど、それが伝わってないのは、私らの説明不足もある・・・というのは否めない。
でも、今の社会は品だけ見て、品だけを大切にして、それを取り巻く文化を見ていないんじゃないか?と思う。
この前、取材で「絵金蔵ができて芝居絵を厳重に扱っているのに、祭りのときは無防備なのはおかしい、という意見がある」といわれたが、祭りのときに昔の無防備な展示方法を壊して恭しく扱って・・・というのは、芝居絵を守る以前の問題じゃないのか?と思うんだよね。祭りのときにああいう展示方法を取っているのも、ちゃんと意味があるんで。
まあ、その一方では美術館っちゅーもんは「ホンモノが見られる」というのがいいわけで、私もホンモノが見られる、扱われているということに感動してこの仕事を志したんだよね。
「芝居絵が絵金蔵では出さない」のなら、何かで補完していかなきゃなのだろーけど、今の蔵では、それがない。「蔵の穴」を含め。これから考えてかにゃー。
なんか乱文。すみません。

>「観光客エゴ」に合わせ過ぎて、つまんない場所になったとこ、本当に多い。
やけん、石見銀山(島根県大田市)みにいってみ〜
ブラハウスを中心に、なんとものんびりと「自分たちのいいまち」をつくろうとしてる地区です。最近は世界遺産の次の候補にあがってますね。この先どうなるのかはこうしたこともあってどうかわからんけど、少なくとも4年前に行ったときは、地域のありようを素直にみせようとしているなあと思った。そういう意味では、松江もなんとかそのあたりのバランスをとろうとしている感じ。境港とかは逆に思い切り観光客にあわせてきているけど、それもどこかの県庁所在地がやっているような甘ったるい漫画都市宣言よりも性根が入っていて感心感心。山陰はおもしろいですよ。「観光」ってのをすごい学べる。全体的に無理してないね。


>絵金蔵は「美術品」としての屏風、というより、「絵金を取り巻く文化」全体を大切に思っているんだけど、それが伝わってないのは、私らの説明不足もある・・・というのは否めない。
これは間違いないですね。展示でその点が不足しているんでしょうね。絵金祭りとか絵金屏風を使った祭りに関する展示があれしかないというのは少し寂しいかも。しかしスタッフがそれをいちいち口で説明してもまたなんか違うような気がしたりもするし。

>「絵金蔵ができて芝居絵を厳重に扱っているのに、祭りのときは無防備なのはおかしい、という意見がある」
全然わかってないよね。赤岡の絵金屏風絵は単純な美術品じゃない。檻の中の美術品としての屏風絵と、街に生きる家宝としての屏風絵。これが赤岡においては同じものになっているから、ややこしい。
檻に収まってその作品をはじめて「美術品」として認識できる、という風潮?があるのは今まで美術館が制度として「美術のインドア化」を押し進めてきたその成果ですよね。そんなインドア化があるから、街にちょっと作品置いただけでパブリックアートなんていうよくわからん言葉になったりもするし。
なにが本物なのか? この問題を通じ、 副蔵長ともいろいろ意見を出し合っていたのですが、非常に簡単なことなのに、伝えるのがとても難しい。。。

>「芝居絵を絵金蔵では出さない」のなら、何かで補完していかなきゃなのだろーけど、今の蔵では、それがない。「蔵の穴」を含め。これから考えてかにゃー。
とりあえず、近いうちにふっくら邸小宴会で。

読んでいて、以前、四万十川の撮影に行った時、一つの沈下橋の橋桁が真っ青なペンキで塗られていてショックだったことを思い出しました。
地元の人の努力や想いっていつもスゴイと思うんですが、たまに迷走してしまう観光地ってありますよね。迷走しちゃうと、もうその場所の良さが失われてしまう。結果、観光地としても寂れていく。文化を守りながら、その文化を維持するための資金を稼ぐという事の難しさを感じました。

関係ないですが、よさこいの本祭(の撮影)が終わって今、放心状態です。鼓膜が痛くなるほどの大音量、照明で光る踊り子の肌、踊り子と目が合って笑い合う瞬間・・・やっぱりその場・その時じゃないと味わえない感動ってありますよね。(でも、よさこいも賛否両論色々ありますがね・・・苦笑)

どもども。
観光地の張り切りすぎ。
観光客の主張をしすぎ。
このバランスって難しいですわね。

自分自身、いろいろなところを巡っていてやっぱり観光客エゴに陥るときありますしね。
もっと素直に、自分たちのことに自信を持ってやっていたら、観光地もいいのになんてことを思うけど、やっぱりそこに「サービス精神」が芽生えてしまうわけで。そして、これは全然否定できるようなものでもなくて、四万十川で橋脚を青に塗るのも、きっとよかれと思ってやっているのであろうわけで。
まあでもたぶん役人が川ながやき、青にしたら景観的にえいとか言って決めたんでしょうね。浦戸湾の「雑多な」色彩を統一しようとかいっているのと同じで。電線を取ったら町が綺麗になるとか言うのと同じで。
>迷走しちゃうと、もうその場所の良さが失われてしまう。結果、観光地としても寂れていく。

お疲れ様です。おいらは街が狂うこの4日間はホントに好きだなあ。平然と狂える日が今もある、というのはすんばらしいですよ、きっと。
>関係ないですが、よさこいの本祭(の撮影)が終わって今、放心状態です。鼓膜が痛くなるほどの大音量、照明で光る踊り子の肌、踊り子と目が合って笑い合う瞬間・・・やっぱりその場・その時じゃないと味わえない感動ってありますよね。(でも、よさこいも賛否両論色々ありますがね・・・苦笑)

本物とレプリカ
モネの庭が北川村にあります。
まさにセミレプリカ(株分けの意)しかも観光チベットという土佐東部地域です。
観光地と見るか、世界の美術遺産庭園と見るか、印象派絵画の終局的発生の原点とみるか、どれも当てはまると考えますと、
その顧客へのPRも経済的に来園者の動員はと観光庭園の性格、絵画愛好家のメッカととすれば、来園者は少ない、その延長として考えれば、美術教育の場として学生の動員。
アクセスの利便性を考えると徳島県の大塚国際美術館jのモネの睡蓮の大連作を鑑賞し四国東部のバスルートからモネの庭に至り、高知市一泊の観光ルートの開発、十分地域活性化にも役立つ政策だと思われませんか、ご意見いかがでしょう。

観光地と地域エゴ
どうも観光地は住民の意見を尊重して開発されたと派思われれず、箱物優先であったケースで問題発生。
「北川村モネの庭マルモッタン」の例を考えるとフランスと日本の北川村。村民の反対が少なくむしろ村民参加のモネの庭誘致建設であったと思われます。
今後の村おこしは、モネの里(郷)などと勝手に解釈して進めると、モネの知名度と村の知名度が上る、モネの村おこしに人口の減少に歯止めがかかると思ってもします。
地域エゴは、一体となったイベントでなければ成功しないし、損得の相乗効果をよく検討するというシステム志向設計が必要のようです。
問題解決では、上位システム展開の方法が有効ですが、現実には大変な努力がいりますネ

モネの庭>
睡蓮であれば、地中美術館にもありますね。しかし大塚とモネは少し遠いかと。四国南東部はアクセスが悪すぎます。

絵金蔵とモネの庭は同じレプリカでも性格が全く違っています。
絵金蔵は、赤岡という土地に置ける絵金屏風絵のあり方と須留田八幡宮宵宮の歴史の重要性といったことを中軸におき、必然的にレプリカという展示をとっているものだと思うんですよね。絵金蔵がレプリカで愚の骨頂と指摘するのは実は地域への愚弄でしかない。
モネの庭は、そこでいうと別にモネとも睡蓮とも何の関係もなくて、ディズニーランドが舞浜にできたのと同じ突然変異的なものでしかなくて、中軸にあるものは何も無い。ただ、そこに正統性や必然性を付加価値的に与えるための工夫の如何(本家との連携や万全の維持管理など)という点では、意外とモネの庭は(現状として)絵金蔵以上にうまいんですな。
よって、絵金蔵が指摘されるようなレプリカ云々という指摘はモネに対しては(逆に諦められているのか)特にない。最初からレプリカなのは分かっているけど、それが本物であるという価値付けをうまくやっている。また、相手が仮にも「美術品」で「本物」も館内に納められている絵金蔵と、相手が「自然」で、本物もなかなか見れない海外にあって・・・というモネの違いもある。ただの陶板なのに、そのヴォリュームとリアルさ、フランクさで本物以上の価値を生み出している大塚国際美術館もそうですね。
あー話がずれましたが・・・

モネの庭は、そうした大塚も持っているようなフランクさを兼ね備えているという点で、観光地としての可能性はそこそこあるかなと思いますね。。。一時期どうなるかと思いましたが(笑) ただ、教育拠点にはならんでしょうね。本物がなさすぎる。
また、北川が一体となってモネを支援しているかというと、そのように思った事はありません。むしろ完全にあの一角は地域から浮いていて。。。
 その点では逆に絵金蔵に可能性を感じますね。。。美術館としての学芸/研究機能の充実は当たり前のこととして、まだまだこれからだけど地域の文化/情報拠点としての価値付けへの道のりをつけることも目指しているし、そのことを生まれた時からの宿命として絵金蔵は抱えている(HOPE計画)。また、本物とレプリカの双方を抱えている利点もある。今は弱み的に指摘されることも多いけど、使いようによっては相当の強みになるような気がします。しかし、純粋な観光地として考えると、常設メインで融通の利かない構造というのは厳しいとも。
いずれにしても、maeさんが最後に指摘しているような「一体となった」「知名度向上」への道のりというのは、言うは易し行なうは難しで、館側の少ないスタッフ、財政の中で苦労して工面をしながら地域に対してアプローチをしていかないと変わらないものです。
それはコンサルのエントリでも書かれていたように、意識改革という点で「引っ張る側」にこの場合館側が回らないといけないからです。放置しておけば、モネも蔵も住民からすればただの「箱」ですから。
システムというとなんだかよく自分には分かりませんが、とにかく「やるっきゃない」。土井たか子です、はい。

はじめまして。
とんでもなくタイミングを外した投稿ですが、山陰の住民なもので、上で18さんが山陰を誉めて下さっているのを見つけて、嬉しくなりまして♪
山陰出雲松江もここ数年間は観光客が減っています。一発逆転の切り札、という策はなかなか見つからないようです。

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